「夜が走る」

作・なかまくら

2010.9.6

 

 

夜が走る。

時計の針は、その刻み方を忘れる。

歯車は牙を抜かれ、時計はかつての無限に落ちる。

あれ? 寝室のカーテンがふわりとゆれて、生暖かい風とともに月明かりが差し込んだ。

紅色の美しい月だった。それはそれは綺麗だった。それはそれは。

まるで美しさの中に、吸い込まれていくように、

夜は走る。

 

 

「ふうん、ここね」ルルはKEEPOUTをするりとくぐった。

「待てって」ルルが隣を見れば、イーヴンニがKEEPOUTを跨ごうと苦労していた。

赤い薔薇の花で飾った鍔の広いベルベットの黒い帽子に、真っ黒なドレスのルル。対照的に、白い衣裳のイーヴンニ。オセロでも始まるのではないかと訝しがる地元の刑事が見守る中で、二人の前に真っ赤な花びらのように咲いた吸血死体があった。

「被害者は?」イーヴンニが不意に振り返って尋ねる。

「花屋のパニーニだよ」刑事がいかにも不服そうに、不遜そうに応える。

「刑事さん、あなたお名前は?」ルルが愛くるしい笑顔を向ける。唇を柔らかく押すように生える犬歯がひどく印象的で、それはそれはたいそう魅力的に見えた。

「私はソンブレロ」ソンブレロ刑事は、そのヒゲを撫ぜる。値踏みするおやじの顔で。

「ふうん、いい名前だわ。覚えておきましょう」ルルがそう言い、

「それはどうも」ソンブレロ刑事が、愛想笑いのひとつもせずに応え、イーヴンニが少し震えていた。

「・・・で、確認させて欲しいんだけど。ここらで一番の生娘なのよね」

ルルが、ソンブレロに対して初めて少し控えめに質問をした。

「そうだ。花屋の看板娘で、このあたりではこの子の笑顔を見るために毎日花を買いにくるお客も少なくなかった」

「これでねぇ・・・」ルルはため息をついた。

「これ・・・で・・・?」

「どう思う、ルル」

「枕元に置いてあった」イーヴンニは、その本をルルに渡した。

「ん」

「その本なら私も見たが、特に目を引くようなことは・・・」ソンブレロが、何か嫌な予感にしたがって口を挟む。

「なるほどね。ふたりは愛し合っていたんだね」

「は」

ルルは、あらぬ方向を向き、ソンブレロは呆気に口を取られ。イーヴンニが、本から落ちた栞をそっと拾った。栞には赤黒く染まった血の約束と、その雨を防ぐ一本の傘が差されていた。

「杭、差しといてね」ルルはそっと言った。

 

 

「まあ、間違いなく血の暴走でしょ」ルルは道すがらイーヴンニに言った。

ルルの帽子はルルを覆うように陰を作り、イーヴンニが差す日傘によってその陰はいっそう濃くなって。イーヴンニには、ルルの感情を読み取ることが出来なかった。

「そうだな」イーヴンニは応えた。

暑い日だった。日差しがちりちりとイーヴンニの肌を焦がす。なんか焦げ臭くない? と言われてみれば、イーヴンニの肌は少し黒く煤けていた。

「この前吸血したばっかだもんね。ごめんね、無理させちゃって」ルルは、少し申し訳なさそうに鍔をあげてこちらを見た。そんな憂いを含んだ顔をイーヴンニはいつも直視できない。その時だけは本当のルルである気がして。イーヴンニはあらぬ方を向いて、

「大丈夫。一週間もすれば治るさ」とだけ、言った。

ルルの吸血によってわずか逆流した血液が、イーヴンニの身体の一部となり、日光によって焼かれる。その苦痛は針に刺されるように鈍くしびれるような痛みだった。そのための日光対策。一見それは自分がヴァンパイアであることを公表しているようにも見えるその姿はしかし、国が配慮として広めてくれた日光過敏による病気によってすっかり陰に覆い隠されている。

 

「犯人、まだこの辺りにいるかな」イーヴンニは話題を変えようと、そう言った。

「まだいるよ、きっと。血の香りがするから」ルルが応える。本性を現した瞬間、仲間同士はその位置を一瞬で感じ取ることが出来るらしい。

「今夜だな」イーヴンニが言い、

「そうね。帰りましょう」ルルが角を曲がる。

 

ふたりは商店街によって、ホテルに帰って早めの「食事」を摂った。

夜が走る。

 

 

月は紅く染まり、天井の低い夜空で見物人を決め込んでいる。

電柱の上ではフクロウがその首を傾げ、ホウと鳴いて飛び立った。

闇夜に足音が走り出す。気配。気配。振り向いても誰もいないけれど、常に自分の後ろに付きまとう気配。後ろを向いた瞬間に、今までの前に気配。恐怖。死への恐怖。恐怖に沸き立つ血はそれはそれは美味らしく、にゅっとのぞく白い歯だけが闇夜に浮かび上がる。明滅を繰り返す薄暗い街灯を背に、まだ齢を20も重ねてはいない娘がひとり。激しい運動に上気した頬。恐怖に歪んだ顔。血の気はすぅーっと引いていく。すぅーっと、

 

「そこまでよっ!」ルルが気持ちよさそうに叫ぶ。

「不意を衝けばいいのに・・・」イーヴンニがやるせない、しかし緊張した面持ちで言った。

「誰だ? ・・・同業者か?」ヴァンパイアは姿を現す。よほど血を吸ってきたのだろう。ルルに比べれば血行は極めてよく、肌はきわめて健康そうであった。

「警察よ。あなたを狩りに来たの」

ルルが言い終える前に、ヴァンパイアはルルの間合いに入っていた。鋭い爪がルルのドレスを浅く傷つける。ルルもまた同じように「加速」に乗って退がる。

「ああっ、気に入ってたのに!」ルルがそう言いながら、反撃に出る。小柄な身体を生かして、体ごとぶつかっていく。それを相手がかわしたところで、放射状に放たれたワイヤーがヴァンパイアの身体を捕らえる。ルルは一方の端を強く引っ張り、一瞬の驚愕の間にイーヴンニが電柱にすでに括りつけていた。

「・・・・・・さて、と。懺悔の時間よ」ルルが、無感情を装っていつもの台詞を言う。

「お前ら・・・・・・こなれてるな」身体中をがんじがらめに巻き取られたヴァンパイアが渋い顔をする。

「まあね」

「お前も用がなくなったら処分されるかもしれないんだぞ」

「そうだね」

「面白い。お前、名前は?」

「ルル」

「ルルか・・・胸くそ悪い名だ」一瞬だった。ヴァンパイアは、ワイヤーを強く引き電柱を地面から引き剥がすと「加速」娘の側にいた。そして、何事かを耳元にそっと呟くと、

「俺の名はシブルアム。また会おう!」そう言って、薄く笑みを浮かべると闇夜に消えた。

後には恐怖に泣き叫ぶ娘が残った。

 

 

「ようやく眠ったよ」イーヴンニが部屋に戻ってくると、

「悪趣味ね」ルルがそう応えた。

「この部屋のこと?」部屋は紫色の絨毯が敷かれ、壁にはトナカイの剥製が飾られていた。

「シブルアムっていうやつ。恐怖を植えつけて育ててから食べようなんて」

「そうだな」

「・・・で」ルルが纏う空気を切り替える。

「収集家(コレクター)の娘、モニータ。父親から絶対に守って欲しいって頼まれた」イーヴンニがつまらないことを言う。

「彼女も収集品のひとつなのかしらね」ルルが呟くようにそう言って、

「どうしてそう思う」イーヴンニが思わず聞き返す。

「ん、なんとなく」ルルは、そう言いながら、ポケットに手を伸ばす。

中からは、探知機が姿を見せる。

「ターゲットは発信機で補足済。いつもみたいに昼間の間に決着をつけるよ」イーヴンニはその時のルルの決意の瞳に不覚にも揺れた。

 

昼。

ヴァンパイアの力は人間の2倍程度にまで落ちる。つまり、ふたりがかりなら充分太刀打ちできる程度。

そこは住宅街の一画で、いかにもそれらしい雰囲気だとか、そういったものはまったく感じられなかった。

「まあ、あのへんね」アパートの下から窓を覗くと、いくつかの部屋のカーテンが閉まっているのが見えた。

その時、道の向こう。

「お前たちは・・・」思わず漏れた声にシブルアムが自分の口を押さえていた。

「・・・着替えたのね」探知機の指す方向を見ながら、ルルが唇をかむ。昼間、ヴァンパイアの力は人の2倍程度まで落ちる。その力を感じることは難しかった。つつつっと、流れた血をぺろりと舐めて、今度はルルが薄く笑う。さあ、踊りましょ。シブルアムが「加速」をかけて向かってくる。その速度は一般人にはやはり異常だが、業界の人間にとっては通常の範囲内。ルルがほぼ同時に「加速」する。銀のナイフに陽光が煌いて、ふたりを見境なく焼いていく。

偶然はルルを陥れた。不意に陽光がルルの瞳を射る。思わずナイフを取り落としたルルにイーヴンニが素早い対応をとる。

「ルル、退って!」さっきまでルルがいた空間に、爪が走り、その直後、銀の銃弾が横断する。その瞬間には、シブルアムは「加速」で再び退いていた。シブルアムは壁にめり込んだ銀の銃弾をちらりと見ると、へらへらと笑った。

「銀の銃弾か・・・。人間がおっかないものもってるんじゃねぇよ」

言った瞬間、加速してあっという間にいなくなった。人間の足では追いつけまい。

「ルル、大丈夫か」イーヴンニは気持ちを切り替えてルルに駆け寄る。

「血が、・・・欲しい」ルルは弱弱しく笑ってそう言った。

その日、ふたりは早めの夕食を摂った。

 

 

「大丈夫?」ルルが心配そうにイーヴンニに声をかける。イーヴンニは安楽椅子に腰掛けて、額に腕を載せていた。

「んー・・・一応、鉄分輸血は受けた。それよりも、もうちょっと吸血の間隔あけないと、ルルの血が弱るのが早くなるな・・・」

「・・・分かってる」ルルは、応えた。

 

「今夜、来るだろうな」

「・・・分かってる」

 

 

今宵もまた月は昇る!

月は黒い雲にかけられて、いっそう妖しさを増す。

生暖かい風が、暗い路地を通り、野良犬たちをやんわりと撫ぜる。

今宵! 剥製の並ぶ部屋の隅で! 吸血鬼とひとりの人間が!

息を殺して! 吸血鬼を待つ! 娘は震えの中に眠り!

窓が音もなく開く! 

開宴! さあ、拍手を!

 

「やあ、諸君!」シブルアムが絨毯にそっと足を降ろす。

娘モニータは見えない糸に操られるように、深い眠りから目を覚ます。

恐怖。全視界を埋め尽くす恐怖! 恐怖!

 

高らかな笑い声。

 

「そこまでよ」ルルが、静かに言った。言った瞬間、壁に叩きつけられていた。

静寂! 宴に休みはない!

「待て」イーヴン二が銃を構え、その瞬間、すべての弾丸が、拳銃から鮮やかに抜き取られる。華麗なる蹴りが両足を粉砕し、断末魔とネズミが走り回るような音を階下に響き渡らせる。

踊る! 踊れ! 血の宴を!

 

叫ぶ娘! 収集家の父は、地下の倉庫で窮屈な夜を震えながら耐える!

せめて! せめて娘の断末魔が聞こえないように! ああ! 神様! どうか、

モニータの断末魔が聞こえないように!

 

モニータの柔らかい肌に、そっと歯が当てられ、ぷつり、と血の玉ができる。その瞬間、モニータからはすべての力が抜け落ちた。

 

 

力は明らかに弱っていた。

 

圧倒的な力の差を目の当たりにして、ルルは人間だった部分で必死に考える。ヴァンパイアとして勝つことは難しい。野生を打ち砕く理性の光こそが、ルルにしか持ち得ない武器。力を合わせること。それがヴァンパイアとの違い。ヴァンパイアでありつつ、その生き方を拒んだルルなりの力。

 

『加速』

 

加速がかかって、身体中がギシギシと悲鳴を上げる。

月明かりにきらりと光った銀のナイフは、一瞬でその矛先を変えられ、ルルのわき腹に突き刺さる。内臓が焼かれる痛みにルルが転げまわる。声帯が切れ飛びそうな音を搾り出す。

その時、轟音がなっていた。続けて、2、3、4。

驚きで口角があがったまま、シブルアムは、言葉を吐き出す。

「お、前・・・人間だろ?」

同時に加速したイーヴンニが銃を構えて立っていた。

「俺・・・特殊体質なんだ。噛まれると部分的にヴァンパイアになるけど・・・元に戻るんだよ」

イーヴンニは淡々と説明した。

「バケモノめ・・・」シブルアムが崩れ落ちながらそう言い、倒れて圧迫された肺から、うっ、と、うめき声が漏れた。それから、・・・そんな花嫁が欲しかった。そう、呟いたような気がした。

 

 

イーヴンニはルルに駆け寄る。「ルル・・・ナイフ、抜くよ?」

ルルは、苦しげに頷く。「―――――」

獣のような叫びが耳を突き、イーヴンニは、それを目を逸らさずに見ていた。「ルル、大丈夫?」

ルルは、弱弱しく笑って、言う。「血が欲しい」

イーヴンニは今度は少し寂しく笑って、ダメだよ、って呟いた。それから、ドクターに診せに行こう、と優しく言った。

ルルがいやいやと首を振る。それでも、とイーヴンニは、ふらつく足で、ルルを背負って、脇にはモニータを抱えた。

「イーヴンニ・・・他の人の血なんて・・・輸血したら・・・私・・・血の暴走でしばらく荒れるよ?」ルルは、精一杯しがみつきながら、そう言う。

 

夜道に捨てられた少女は格好のエサになる。親は目を瞑り、耳を塞ぎ、あっという間に少女はひとりになる。どこか遠いところに、ひとりっきりになる。ああ、捨てられたんだなぁ、と思うと、彼らが闇からやってくる。「そこまでだ!」誰かがそういう役回り。でも、いつかどこかで、遠いところで、また、ああ捨てられたんだなぁ、って、思ったら―――でも、いつかどこかで

 

 

―いいよ

 

優しく呟いてくれる誰かがいるなら、また明日が来てもいいかもしれない。

 

 

モニータが次に目を覚ますと、知らないベッドの上だった。

何故だか無性に喉が渇いて、ベットの脇に置かれた果物をぐしゃりと食べる。

ところが、ヘドロのような味が口の中に広がって、一瞬で吐き出した。吐き出したタネは壁にめり込んだ。

「? !? !!?」

「おはよう」ベッドの脇には、人間がいくつかあり、その中のひとりのちょっと変わった雰囲気の少女が、喋った。

「私は、ルル。よろしくね」名乗った。

「ねぇ、」と、ルルは言葉を続けた。

 

あなたは吸血鬼になるの。ルルはかつて言われた言葉を不思議と覚えていた。

それはまるで伝統みたいに、継がれていく言葉。

「もし、それでも生きたいというのなら、これを呑みなさい」ルルは赤い液体の入ったグラスをふわっと揺らす。それはとてもかぐわしい香りを立てていた。思わず伸ばしたモニータの手は、グラスを捉えらえられなかった。待って、と、ルルは真剣な顔をする。

「本当にいいの?」きょとんとする顔は昔のルルときっと同じ顔。これから起きるたくさんのことを知らなくて、死ぬより生きたほうがいいじゃん、って、すごく当たり前のように応えるそんな純粋な顔。でも、どんな困難があったとしても、それは彼女が受け入れること。自分には何の関係も・・・・・・。そう思ったルルの手に、もうひとつ、手が添えられる。

イーヴンニの手だった。イーヴンニは終始無言で、手を貸してくれた。

 

モニータはその時から、ヴァンパイアになった。

 

 

夜がやってくる。

時計の針が次元の狭間に崩落し、無限になり続ける0時の鐘が、夜の宴の始まりを告げる。

誰かが悲鳴を上げ、誰かがそれを守ろうとする。

 

今宵も夜は街を走る。

 

 

 

 

あとがき

なんとなく、ヴァンパイアの話。