マンモスが食べたい

作・なかまくら

2011.9.23

マイナスも30℃まで行くとたいしたもんだ。

ところがキンキンに冷えているかというと、そうでもない。
階段を降りてキッチンの電気をつける頃には、
『ちょうど冷凍庫くらいの温度だなぁ』
なんて考えが浮かんでいて、頭からすぅーっと抜け出たもくもくが天井辺りを漂っている。
ぼくは冷凍庫から宇治金時のアイスを取り出そうとドアを開けて、ふと手を止める。

冷凍庫の中で、サーベルタイガーが冷凍のベーコンをかじっていた。

「ちょっと、それ・・・」明日の朝ごはん、と言いかけて、サーベルタイガーには特に触れないでアイスを取り出すことに専念することにした。取り出したら有無を言わさずバタンとドアを閉めた。ぶぅーん、と温度の変化を感知した冷蔵庫が活動を始める暗いキッチン、冷たいフローリングの上に立っている、ぼく。かちかちかち、時計のおと。がこん。

音がして、出来た氷が氷受けに落ちる。

ふぅ。
一息ついて、アイスを包んでいる薄いポリエチレンをつぅーっと、縦に裂いた。

途端に、ぽわぽわと空気中を漂う半透明な動物プランクトン達が袋の中のアイスのほうに向かって意思を持って漂っていく。

ぼくは遠慮なくアイスを一緒に食べる。プランクトンたちがものも言わずに口の中に吸い込まれていく。がりっ、がりっ。

前なら、こんな時間にアイスを食べたら顔を真っ赤にして怒られたはずなのに、今じゃ何も言われないのはどうしたらいいものか、と思ったりしていると、
がさっと音がして、庭先からアルミサッシと漂う海藻を跨いでのっしのっしと、毛皮姿のヒゲぼーぼーの男がやってくる。
「どうしたハラト、アイスか? 夏バテに気をつけろよ!」
「うん・・・」
そのヒゲぼーぼーは三葉虫の串焼きを片手にパパの声でそんなことを言う。

パパは病院から帰ってこない。

全部あの日からだ。遊園地に行って、マイナス30℃を家族4人で体験して、それからいつになく豪勢なホテルに泊まって、それから次の日は弟の絵が飾られている展覧会に行く予定だった。
ふかふか過ぎて結局一晩中落ち着かなかったベッドで朝目が覚めると、ママしかいなかった。パパは具合が悪くなっちゃったの。病院に行ったのよ。
展覧会で海とか空とか小さな点々とした人の影とか眩しい太陽の光とか平らなものをいろいろと観て、家に帰るとママは

「今夜はカレーにするね」

と言って、ぼくたちの大好きなカレーを作ってくれた。

お鍋いっぱいのカレー少しずつ減って空っぽになった日が来ても、パパは帰ってこなかった。
けれども、キッチンの流しの下に落ちていたジャワカレーの箱を拾う手がやってきた。

「おっ、今夜はカレーかぁ」

パパの顔をして、ヒゲはぼさぼさで、もみあげと完全に繋がっちゃってるけれど、毛皮一丁でのっしのっしと歩き回るけれど、パパが帰ってきた。パパがジャワ原人になって帰ってきた。
その頃にはすっかり家の中には自由に泳ぎまわるアノマノカリスとか、シーラカンスとか殻つきくらげとか六つ足ヒトデとかがふよふよしていた。

それはちょうど、弟の絵の中みたいで、弟に聞いたら「おかえり」って、言われた。





「ハラトくん、あーそぼ!」
岡田くんは、仲のいい友達。
岡田くんの家にはたくさんのゲームがあって、ゲームの中ではロボットみたいなのが戦っていて、相手のロボットをこっちのロボットで攻撃して倒していく。

今頃ぼくの家ではしばらく学校をお休みしているぼくのことで、担任の藤代先生がママとお話しているはずだ。ぼくをどうやってこの生々しい処からサルベージするか。

頭を抱えて、小突きあったりしてる頃だ。今日のママはとっても笑顔だった。

ママは前よりずっと元気になった。

でも、空気みたいにあかるくならない。いつも雨が降り出しそうな、雨のにおいがする。

テレビの向こうではやられて崩れた敵のロボットの螺子とかがぴんぴん飛んで、画面から跡形もなく消えていく。ばらばらになったら、ばらばらになっちゃうんだろう。

ジャワ原人は岡田くんをネアンデルタール人だと決め込んで、ずっと身構えながらぼくたちの代わりに動物ビスケットを食べている。岡田くんはゲームに夢中でジャワ原人に気付かない。

ちょうどボスのマンモス型ロボットをふたりで追いかけていた。

囮(おとり)になった岡田くんが、ふたりで仕掛けた罠をひょいっと飛び越えて、マンモスをそこへ誘(さそ)う。ジャワ原人が思わず賞賛の拍手を贈る。ぼくは後ろから走って近づいて、股の隙間から前足を攻撃する。するとツンノメッタマンモスはそのまま落とし穴に吸い込まれるように頭から落ちていく。ガッツポーズ。

アイテムが手に入る。

マンモスの牙。マンモスの毛皮。マンモスの肉。

でも、ぼくたちはそれをテレビの向こうに手に入れただけだと、ぼくは今はもう知っている。
ジャワ原人はどこから出したのか、ひなびたトカゲの燻製をかじっていた。



理科の授業が始まると、藤代先生は大きなガラスの水槽を理科室の黒い机の上にドンと置いた。

「今日は、顕微鏡を使って川の水の中の微生物を観察しましょう!」

ふよふよとぼくの周りを漂っていたミカヅキモみたいなやつをつんつんとつつきながら、もう一方の手でぼくは頬杖をついていた。ぼくのすぐ後ろにはジャワ原人のパパが鏃(やじり)を構えて藤代先生を狙っていたし、その後ろでは、ペキン原人になったママが替えのパパの毛皮をせっせと洗っている。でも、先生は授業に夢中で気付かない。

顕微鏡の中には小さな海があるね。

先生の計らいなのか、岡田くんの隣で授業を受けていたぼくは、岡田くんがぼそっとそういうのを聞いた。

顕微鏡のスライドガラスの中で、ミジンコとかゾウリムシとかふいふい泳いでいるのが見える。

ゴーグルをして海に潜ったらきっと似たような景色が見えるんじゃないかな。ぼくはそう思った。スライドガラスの向こう側は、ぼくたちの手が入ったらプチッと潰れてしまうような、そんな世界で、


ぼくはそういえば、しばらく弟のことを忘れていたことに気づいた。





あとがき。

なんとなく、生きるということについて。昨日も今日も。それから明日も。