おちてこなくなった
地面にへばりつくように存在するそれを見つけたのは、“おちてこなくなって”から随分と経ってからのことだ。
慣れた足取りで吸盤付きブーツで壁を垂直に降りた。なんとなく好奇心のようなものがフワフワと浮かび上がってきて、近づくと、一兎(イット)はそれを拾った。そこは、街の中心からは離れたところで、でも不思議なことに彼と彼の友人の秘密の場所になっていた。
*
一兎は月村くんとこの街で育った。まだ”おちてこなくなる”前のこと。踏み出した足は地面に吸い付くようにぺたぺたと張り付いていく。それでも子供たちはまるで重さを感じさせない軽快な足取りと街角に立ち並ぶ高い石造りの建物に反響する笑い声をたてて、駆け抜けていく。階段3つ飛ばしはあたり前。くるくるとそれは踊りのように、街に風が吹き込んでくるように。
その日・・・、
イッシュザーグの靴屋から3つめの建物。その建物と隣の建物との隙間、そこから路地裏を抜けると、思いがけずそこにぽっかりと空いた場所があった。
背の低い草を生やした草地。背の高い建物に囲まれ、切り取られたみたいな空に恒星が浮かんでいた。ひとつ、ふたつ。そして、空き地の真ん中には、昔よく想像された宇宙人のそのままの格好のイラストの描かれた看板が立っていた。名前は確か、グレイだっけ? グレイの看板は不可思議な銀色の脚でその空き地の中心に立っていた。
どれだけか時間が立つと不意にどすん、背中に衝撃があり、前によろめく。
振り返れば、月村くんが鼻の辺りを押さえて尻もちをついていた。
「急に止まるなよぉ・・・」抗議の声。
「月村くん、これ、なんだと思う?」抗議はひらりと身体をひねって躱してみせる。ひねったその先に、グレイの看板が見えるだろう。
「・・・・・・あれ? なんだこれ」月村くんは、驚いた顔で目を丸くする。その瞳には、上にある恒星までも映っていそう。
「こんなのあったっけ?」
「・・・誰が作ったんだろ?」
「んー・・・。宇宙人?」
一兎と月村くんは、その日、その場所を見つけた。
*
その場所は、一兎と月村くんの秘密の場所として始まった。
ふたりはよくその場所で話をした。よくするのは宇宙の話だ。
「こんな説がある」月村くんは科学雑誌の最新号をおもむろに(でも意味もなく)開いて、そらんじてみせる。
「この世界は何度か滅びた。一度目は衛星ができた時、そして二度目は翅(ハネ)トカゲの絶滅。どちらも隕石の衝突が原因だったとされている。隕石は破壊の使者なのか。しかし、その破壊の痕跡はあまりにも小さい」
「ん、破壊の痕跡は小さいの? 絶滅、しちゃったんでしょ?」
「でも、すごく不思議なんだよ。化石になっている翅トカゲはすごく少ない。特に、翅のあったやつはすごく少ない。それってさ、飛んでっちゃったってことじゃないかな」
「どこに・・・?」一兎はなんだかすごくワクワクしながら、そう言って、
「宇宙だよ」ピッと立てられた人差し指のその先、指さされている宇宙空間を見上げ、ドキドキしていた。
「宇宙かぁ・・・ここのほうがあったかくて、僕は好きかなぁ・・・」一兎はなんとなくそう言ってみた。想像の中で、宇宙はすごく静かで、寒いけれど、真っ暗ではなくて、キラキラとした場所のよう。でも、ここにいるから一兎は、地面の温かさを知っていた。
「こんな話もある
月村くんは、革製の肩掛け鞄から別の雑誌を取り出す。
―― 隕石は宇宙の宅急便である。
―― 隕石は、水の中の生き物を陸上でも暮らせるようにしたり、翅トカゲが空を飛べるようにしたり、ヒトなんていう言葉を使う生命を生み出したりする。
・・・隕石は宇宙船なんだよ。生物を変化させる物質が中には入っていて、それを効率的に散布するんだ」
一兎と月村くんの青春は、宇宙にまみれていて、いつか隕石がやってきて、人類は滅亡して、あるいはきっとその時そうだったように、翅トカゲが宇宙空間へ飛び立っていったように、人類も地球というゆりかごを離れる時が来るのだと信じていた。いや、そう思えばワクワクとしていて、高揚感はそれだけで空を自由に飛び回るようだったから。だからきっとそう思っていた。
*
一兎は一足先に20才になって、仕事を習い始めていた。街の小さな清掃会社に就職して朝から晩まで働く毎日。”おちてこなくなって”からというもの、みんながみんな壁を歩くようになっていたから、街は足跡だらけになっていて、掃除会社がたくさんできた。デッキブラシで石造りの建物の壁をごしごしと擦(こす)るのだ。夏の日差しの中、一兎の頬に汗の粒が文字通り浮かび、そのまま丸い形になって空気中に漂っていく。そういえば、”おちてこなくなった”日も、朝から雨だったという。
その雨は、ちょうど正午の時間に合わせて、一斉にひたりと止まった。雨音は一瞬にして消え、傘をさして街を歩いていた人は、空気中に止まった雨粒と正面衝突して、すぐにびしょ濡れになった。それから、妙に身体は軽く、どこかで転がるリンゴを追いかけた猫が浮かび上がったのをきっかけにしたみたいに、世界中がふわりと浮いた。慌てて近くのものに掴まらなかったたくさんの人が空に浮かんでいってそのまま、行方不明になった。
その建物を掃除し終わると、えいや、と壁を蹴って隣の建物に移る。
最初は上下左右前後が意味不明に回転してゲロまみれになったり、壁に激突するのが前提のくっそ暑いもこもこショック吸収作業服を着せられたりしていたけれど、勢いをつけずにこわごわから始まり、段々慣れた。
子供の方が順応は早く、壁を駆け上って笑い声を残していく。その音が妙にぐわん、と反響して、呼ばれるようにその場所に目が行った。
*
地面にへばりつくように存在するそれを見つけたのは、“おちてこなくなって”から随分と経ってからのことだ。慣れた足取りで吸盤付きブーツで壁を垂直に降りた。なんとなく好奇心のようなものがフワフワと浮かび上がってきて、近づくと、一兎はそれを拾った。そこは、街の中心からは離れたところで、でも・・・・・・・・・不思議なことに空をフワフワと飛びまわる現代になっても、そこは秘密の場所のままだったらしい。グレイの看板は相変わらず不可思議な銀色の脚でもって立っていた。よく見れば、脚の途中がぐにゃりと曲がって、何かがめり込んだような跡があった。
「隕石がね、落ちてきたんだよ」
イッシュザーグの靴屋から3つめの建物。その建物と隣の建物との隙間、その路地裏を抜けて、月村くんがやってきていた。
「”おちてこなくなった” あの日、最後に落ちてきたんだ、その隕石が」
隕石が落ちてきたからいけなかったのか、
グレイの看板の脚が曲がってしまったのがいけなかったのか、
・・・後から思えば、それは二人を分けたのはなんだったのだろう、ということぐらい。
「竹取物語というお話をどこかで読んだね。姫様は月の衣を着ると現世のことなどきれいに忘れて月に還って行った・・・僕たちもきっと還る時が来たんだよ」
やっぱり翅トカゲたちはどこかへ飛んで行ったのかもしれない。それからどこかに楽園を見つけて、早くおいでよ、と招待状代わりに隕石を送ってきたのかもしれない。
一兎が手に持っていた隕石は思っていたよりもずっと軽く、でも、持っているときだけは久しぶりに重さを感じた気がした。
その愛おしい石は、月村くんが持って行ってしまう。
月村くんはふわりと浮きあがると、ぐんぐんと空へと昇って行った。
その石が地上を離れると、次第に重力は僕らを引っ張り出して、やがてその足がぴったりと地面についてしまう頃には、すっかり月村くんは見えなくなってしまっていた。
まるで、ばからしくなって、一兎は吸盤のついたブーツを脱いで裸足になった。足の裏に草がくすぐったく、少し、温かかった。
雨は地面をめがけて気持ちよさそうに降り始め、やがて止んだ。
それから幾年かの歳月が流れて、再び”おちてこなくなる”わけだが、
それはまた、別の誰かの物語。