鯨島
「あの男がやってきた日のことを、今でもまだ鮮明に覚えている。」
手帳はそんな一文から始まっていた。ランプの明かりが揺れてでたらめに部屋を照らす。
背には小さなリュックを背負い、小さな丸テーブルに置かれていた本の表紙をそっとめくる。冒険家ニゲ・パッシーヌは、世界にたった一つ残された小さな島の小さな小屋でその本を見つけた。
*
『
あの男がやってきたのは、幼少時代の事である。
「ねえちゃん。」
「なに?」
「おれのイモ、いつになったら食えるかな?」
初めてイモ作りを父親から任されたとき、私は得意げな気持ちになって、毎日様子を見に行き、そして、姉はいつも私についてきてくれた。
私がちょうどその歳の頃、父達は穴を掘る画期的な道具を発明し、油掘りに忙しくなっていた。
「オイリ、そっちへ行っちゃいけないよ。」
「大丈夫だって。」
島の端は断崖絶壁になっていて、その下には、海が勢いよく流れていた。
「ねぇちゃん。どうして、海は一方向に流れるのかな?」 私はなんとなく尋ねた。
「それは、島が動いているからよ。」 姉は答えた。
「島は動くものなの? オレ達が乗ってて、こんなに重いのに?」 私がびっくりして尋ねると、
「そうよ。えっとね・・・学校で習ったの。プレートテクトニクスって、いう自然の現象なんだって。雨が降ったり、嵐が起こったりするのと同じくらい、普通に起こることなのよ。」 姉がそういうと、私はすっかり感心してしまった。
「すげぇな、ねぇちゃん物知りだ。」
「そうでもないのよ。もっといろんなことを知っている人が、この島にはたくさんいるのよ。」 姉はそこで息を潜めた。
「え、なになに?」 私は、姉の口元に耳を近づける。
「たとえば、時計屋のキブンジさん」
「ねぇちゃん、また時計屋のとこ行ってたのかよ。父さんに言われただろ、あそこへは行ってはいけないって。」
私がそういうと、姉はこういうのだった。
「オイリはまだお子ちゃまだから分からないのかなぁ・・・。いい? オイリ・・・」
姉の顔は、とても楽しそうであった。
「ダメと言われるほど、行きたくなるものなのよ」
*
「ねぇちゃん、あの時計屋、やっぱり変だよ」 帰り道で私は、姉にそう言った。
小さい頃の私は、時間を尋ねられることでお金がもらえる時計屋の仕事を胡散臭く思っていたから、時計屋を姉と一緒に訪ねたときにも、胡散臭いものを見る目で時計屋を見ていた。だから、時計屋が言うように、かつて世界には超大陸があって、それはほとんど動かない大地であって、その大地はどれくらい大きいのかというと、地の果てが見えないくらいであったとか、そんなことを言われても、胡散臭いだけで、ほとんど話は入ってこなくて、嘘をついている顔とはこういうものだと記憶しようと顔をじっと見ていた。
「あのね、オイリ。私思うの。あの人の言っていることが全部本当の事だったらって。」 幼い私には、その顔は時計屋とは違う感じの顔で、そう言っているのは嘘ではないことは分かった。
「でも、それは、夢物語だよ。やっぱり、世界にはこういう速く動く島しかないんだって。」
私がそう言ったとき、あさっての方角から声がした。
「その話、もう少し詳しく教えてくれるかな。」
知らないおじさんだった。おじさんは黄色と茶色のチェック柄のシャツを着て、ズボンはカーキ色。そして、全身濡れ鼠になっていた。
「おじさん、だれ?」
今思えば、おじさんは、私たち二人の反応を待っていたのだと分かる。
「私は、冒険家のイリー・ベアー。ちょっとお話を聞かせてほしいんだ。」
柔らかい物腰のおじさんに、私たちはいろんなことを話した。ご馳走してくれたクッキーも紅茶もその島では珍しくて、美味しかった。おじさんは私たちの話を終始にこやかに聞いていたが、父の油掘りの話になると、急に険しい顔をした。
「なんだって!? ・・・それは一体いつからやっているんだい。ああ・・・いや、すまない。それで、時計屋の場所なんだけれど・・・」
それからしばらくして、冒険家イリー・ベアーは、油掘りに反対する言動をしたとして捕まった。
「おじさん。」
姉は牢にいる冒険家イリー・ベアーにすぐに会いに行った。幼い私はそれにただくっついていた。
「ああ、君たちは何時ぞやの・・・時計屋の場所を教えてくれた子どもたちだね。」
冒険家イリー・ベアーは、痩せこけていた。明らかに精気の足りていない顔でこちらを見ていた。幼い私は思わず、言っていた。
「おじさん、死ぬの?」
冒険家イリー・ベアーは、力なく笑った。
「あるいは、そうかもしれない。大きなお世話だとは分かっていたんだが・・・、ここは君たちが思っているような場所ではない。大きな生き物の背中の上なんだよ。穴を掘って、生き物の背中の皮膚にドリルが到達してご覧。どうなると思う? たとえば、お姉ちゃん、君が頭を思いきり天井にぶつけたらどうなるね?」
「・・・びっくりして、縮こまる。」
先週、食器棚の角に頭をぶつけたのを思い出したのか、頭を押さえ、膝を抱えてしゃがみこんだ。
「そうさ。下は海だ。この鯨は海に潜るだろうね。」
「クジラ?」 私がその名を呼ぶと、
「そうさ。ここは島鯨の背中の上なのさ。私は、船という海を渡る乗り物でこの鯨までやってきたんだ。でも、冒険もここまでかもしれないね。」
「おじさんはどうして・・・」 幼い私は尋ねていた。
「どうして、嘘に命を懸けるの?」
「どうしてって・・・どうしてだろうね。嘘じゃないからじゃないかな。さあ、もう行ったほうがいい。」
そう言って、別れた。
*
夜。私は眠れなくて、起きだした。
食卓には明かりがともっていて、父達が、地図を開いて難しい話をしている。「いや、ここはもう掘りつくした。」「もっと、深く掘ったほうが・・・。」 幼い私は、そっと、家を抜け出した。犯罪なんて起きない町だったから、牢屋に番はいなかった。
「おじさん。」 私は声を潜めておじさんに声をかけた。
「どうしたんだい、こんな夜更けに。」
冒険家イリー・ベアーはびっくりした顔で、そう言った。
「おじさんは嘘つきだと思う。その大切さはオレには分からない。でも・・・」
私は、その言葉を続けた。
「命と天秤に掛けられるくらい大切なものだってことは、分かるんだ。」
*
私と姉は、書き置きを残して、家を離れた。幼い私はそれはちょっとした冒険で、すぐに戻ってこれるものと思っていたが、それは大きな間違いだった。冒険家イリー・ベアーはそれを何度も私に念押ししてくれていたが、私は聞いていなかった。
だが、今だから分かる。その冒険心が、私の命を救ってくれた。
今再び、私はこの本を残し、南へ向かおうと思う。
遠い南の果てに、まだ見ぬ大地が広がっているというのだ。
』
冒険家ニゲ・パッシーヌは、静かに本を閉じる。それから方位磁石を取り出すと、ゆっくりと背筋を伸ばし、その針の向かう先を見据えた。
**あとがき**
本の向こう側から、彼は尋ねる。
お前の生きている世界と俺の生きている世界、どちらが現実だったとしてもおかしくない。
そうは思わないか? 私はおびえて、こんな物語にそれを閉じ込めるのかもしれません。