小さな指輪
兎年になれば、と期待を膨らませていた。
「まっとうに働けば良いじゃない。」
7畳の少し狭いアパートに、遊びに来ていた素数ちゃんはそう言った。
「いいんだよ。おれが動くんじゃない、相場が動くんだ。」
金魚のアブクの数を数えながら、おれは安い餌を振り撒いた。
「なんだかなぁ・・・。」
と、素数ちゃん。素数ちゃんとは高校の同級生で、大学の入学式でばったり会った。同じクラスだったのは、あとから卒業アルバムで確認した。互いに高校生の時には意識していなかったけれど、おれたちは自然に一緒にいることが増えた。それは大学を卒業してもそうだった。素数ちゃんは小さな会社の事務員になり、おれは契約社員で働き始めた。
その通貨の名は〈月光〉といった。月の土地管理をいち早く始め、その土地を担保にできた仮想通貨だった。月がきれいな夜は価格が高騰するという噂。
「なにさ。」
「いや、うん、いいと思うよ。」
素数ちゃんは、この話をするとき、なんだかよそよそしい。
「気になるよ。」
おれがそう言うと、
「そう?」
素数ちゃんが少し思案するように明後日の方向を見つめて、それからこちらに向き直る。
「じゃあ、いうけどさ」
「うん。」
「私さ、仕事、順調なんだ。」
「そうなんだ。」
「うん。少しずつ会社の製品とか覚えてさ、受注した仕事を整理したり、委託先にお金を支払ったり、いろいろ頑張るとさ、ありがとうって、言ってもらえたりするの。」
「そうなんだ。」
「そうすると、やって良かったなぁって思ったりしてさ。」
素数ちゃんはちょっと思い出して嬉しそうな顔をする。それはおれにはあんまり興味のない話で、でも、普段はふたりがしない話で、相槌を打ってみる。
「そういうのが、大事なんじゃないかなぁって。買ったものが大切にできるってことじゃないかなって。」
「でも、夢があるんだ。〈月光〉っていう名前もいい。夢もなく老いていくのは、おれには堪らないんだ。」
「うん」
素数ちゃんのうんは、全然「うん」ではなかったけれど・・・そのときのおれには、せっかく素数ちゃんが言ってくれたそれを、気に入ることができなかった。
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おれは毎日“月光“を眺めていた。スマートフォンの青い光が画面上に乱高下するグラフを映し出す。十五夜に、満月に、おれは期待を寄せた。月の神様を祀るという月光神社にも行ってみた。すべては順調に進行しているように見えた。通貨の価値はグングンと上がった。NASAから月面探査が発表されたときと月に次世代燃料のための資源が見つかったときのあの高揚は忘れられない。思わずクワガタ踊りをしながら、月光神社へと続く階段をひとり、駆け登った。
鳥居の向こうに大きな月が出ていた。
見下ろせばちょうど、いま駆け上ってきた参道と階段の手前のところまで、夏祭りの灯が点いていた。赤い提灯が屋台の軒先に連なっていて、楽しげな声が聞こえて来る。
「食べる?」
目の前にお団子が差し出されていた。
「素数ちゃん。」
驚いたら返事の代わりに口をついていた。
「・・・まだそう呼ぶんだね。」
そういう声が悲しげで驚いた。
「え、あ、いや・・・ごめん。」
「お団子、どうぞ。あなたの好きなこしあんの。」
「う、うん。」
普段は名前で呼ぶのに、なぜだか突然、大学のときのみんなが呼ぶあだ名で呼んでしまったのだ。おれは押し黙っていた。何と言ったらいいのか、分からなかったから。
「・・・トッピングのチップが美味しいんだ。」
彼女は気にしてないよ、という装いで、そう言って声をかけてくれる。
「いただきます。」
おれは、団子をひとつ、頬張る。もちっとした大きめの団子の素朴な味がする。
「私ね、素数ちゃんって言われるの、イヤだったんだ。」
「・・・うん。」
口に頬張るのを待っていたみたいに彼女が話し始めるから、おれはもごもごしているしかなかった。
「素数って誰とも共通因数を持たないの、わかる?」
共通因数とは、二つの数で共通して割りきれる数のことだ。
「誰とも共通の話題が作れなくて、ずっと一人だった。数学は得意でさ。それを揶揄されて〈素数ちゃん〉って。私だって、みんなとお話して、楽しく過ごしたかったのにね。」
「ご、ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ。」
「畑中くんは、なんかみんなのそういうのに興味がなくて、でも私と話してくれて、だから一緒にいても心地いいって感じで・・・。最初はそれだけで良かったんだ。ありがとうね」
よく見れば、彼女はクローバーの散りばめられた浴衣を来ていた。おれでも、その花言葉は知っていた。“幸運“。でも、彼女にとってはそうではないだろう、彼女にとっては、きっと〈think of me(わたしを思って)〉。
そのときようやくおれは思ったんだ。あぁ、何も見ていなかったなぁって。
「何も見ていなかったんだなあ・・・。」
「え?」
「何も見てなかったなぁって、おれはさ。宇宙ばかり見ていた。手の届かない月ばかり見ていた。月がきれいだなとか、そんな、誰とも交わらない、そんなことばかりでありまして。」
「ありますか。」
「ありましたねぇ。」
夜は更けて、月はやがて隠れる。
いっときの熱狂は冷めて、太陽に照らされていた月の虚ろな、本当の姿に人々が気づいた頃、
おれはようやく買った小さな指輪に名前を刻んで彼女に贈った。
(執筆:2018年1月1日 加筆:2025年11月27日)
〜〜あとがき〜〜
大事なものに気付かないのは、いつものことですね。なんでかなぁ。