ライオンを磨く男

作・なかまくら

2024.2.4

 新作のアイデアがどうしても思いつかないときは、散歩をするに限る。
 ぼくにとってそれは染み付いた習慣であり、それには最早あまり効き目がないことも分かっていた。とある出版社の短編小説の公募で佳作に選ばれたぼくは、社会的に小説家として名乗りを挙げた。いつかは一躍有名人に・・・。憧れがあった。

夏の暑い日のことだった。

「今日はもう少し遠回りしよう」
いつもだったら引き返す分岐点で異なるルートを探索することを選ぶ。
けれども、それはそれでいつもの道なのだが、考えることはやめにする。

汗がわきの下でシャツを濡らし、水分を失った喉が渇きを訴えてくる。「やめましょう、もうこんなことは。」訴えに耳を貸さず、まもなく見えてくるだろう、公園を目指す。
公園には、水飲み場があり、ぬるい水が出てくる。それをたらふく飲んで、きっとそうしたら、帰り道を考えることにするのだ。さびれた公園で、孤独を紛らわしてくれることもないのが、心地よかったのを覚えている。そういえば、動物が置いてあった。カバの像とキリンの像と、それから、あといくつかの動物たちだ。その背中に乗って、ひと休みするのが良いかもしれない。今日はいつにもまして、疲れてきていた。

公園につくと、男がいた。ぼくは、急いで水飲み場に行き、喉を潤すと、それからゆっくりと男へと近づいて行った。男は襤褸布を手にライオンの像を磨いており、その身なりは汚れてはいるものの、浮浪者といった風ではなかった。

「こんにちは」
ぼくの言葉に驚いたように、男が振り向いた。どこかで見たような顔だった。
「あの、すみません、驚かせてしまって。こういうとき、なんて声をかけていいのかわからなくて。掃除をしているんですか?」
男はズレた眼鏡を直すと、ぼくを上から下まで観察して、それから、なぜだか少し、ほっとしたように言葉を返してくる。
「こんにちは。暑い日ですね。」
「清掃業者の方ですか? 大変ですね。」
ぼくがそう言うと、
「いえ、そういうわけではないのです。これは、私なりの戦い方なのです」
男はそう言って、ライオンの肋骨のあたりの苔をこすり取った。

「あなたはどうしてここへ?」
男が尋ねるので、
「いえ、その・・・散歩をしていたらここに。あなたがいまして。」
「なるほど。」
ぼくの答えに、男はただ、そう返す。
「あなたはどうしてここに?」
「私も同じようなものです。」
ぼくの問いに、男はただ、そう返した。
ほかに、問うこともなく、男はライオンの像を磨き、ぼくはそれを見ていた。

ライオンの像は、随分と長いこと手入れをされておらず、コンクリートで作られたその像の造形は苔に覆われ、随分と曖昧になっていた。男はその苔を丹念に取り除いていく。

ぼくは、意味もなく喉が渇いたような気がして、もう一度水飲み場へと足を運ぶ。
「あの。」
「なにか。」
「散歩をしていたのは、その通りなのですが。」
「ええ。」
男が手を止めてこちらを向く。
「ぼくはいつもと違う何かが起こらないかと思って、散歩をしていました。小説家なんです。売れていないですけど。」
ぼくがそう言うと、男は、少し考え込んだ後、話をしてくれた。

男は、陸上選手だという。男が高校生の時分には、記録がメキメキと伸びたのだという。自分には才能がある。ほかの人にはない、選ばれたもののみに与えられる才能が。大学も推薦で進学して、社会人になってからもスポンサーがついたという。
ぼくは、男のことを知らなくて、知らないことを詫びた。男は知らなかったことにほっとしたのだと笑った。

「私にかけられた魔法はけれども、消えてしまったんです。いくら練習しても、あの頃のように伸びはしないのです。魔法の中にいたときは楽しかった。夢中だった。気づいたら周りの仲間たちは普通の人生を生きていて、スーツを着て街を駆け巡っていたり、結婚をして子供たちと駆けまわったりしている。けれども、私の魔法は少し効き目が強すぎて、そして長すぎたんです。私は今も陸上競技場のトラックを回り続けている。」

「若い選手はメキメキと力をつけてきています。引退の2文字が頭をよぎることも一度や二度ではありませんでした。なんなら、今もときどき。」
男の言葉に呼応するように、ざわざわと木々が揺れ、その揺れはぼくの心の中を見透かしているようだった。けれども、夏の日差しは強く、いまはその木々の揺れる合間から、木漏れ日が突き刺すように漏れてきていることにも気づいていた。

「だから、私は私の中のライオンを磨くことにした。燃える心だけが、魔法の切れていない若者たちと戦い続ける唯一の手段だと思うのです。」

ぼくは男を手伝い、ライオンを磨いた。汗がとめどなく流れても、一心に磨き続けた。
やがて、ライオンは本来のその複雑な造形を取り戻し、誰もいない公園に君臨する。
水飲み場でぬるい水をたらふく飲んだぼくらは、その姿を満足気に眺めた後、それぞれの戦いに戻っていった。