うまくいかない
ぼうぜんと立ち尽くした。
ドン、と右手に持っていたビジネスカバンがフローリングの床に落ちた音がして、信じられない光景の中に、家内の顔が見えた。その顔がみるみると歪んでいった。
「ごべんな゛ざぁぁ゛っぁあ゛あ゛あい゛」
彼女は白いワンピースをジタジタとした赤い血で染め、その口元も道化師のような赤色に塗れており、最早、恐怖しかなかった。
後ずさろうとする気持ちが尻餅だけをつかせて、お尻が床を打った。下の階の下村さんから、またクレームが入るかもしれないが、そのとき、私はこの世にいないかもしれなかった。
その間にも、私の好きなちょっとふっくらとした手足を巧みに使って四足歩行でこちらに真っ直ぐと進んでくるのだ。爪が立っているのか、フローリングにかりかりという音が立ち、本人の思いとは裏腹に、なかなか進まない。こちらを見る目は、完全に、ごめんなさいとは別の生き物の目だった。そうだろう、そもそも、何故、家内はアパートの一室で馬を喰っていたのだろう。
「待て! 私だ。落ち着くんだ・・・」
膝に乗り上げて、今にも家内のその指の切っ先が、私の目玉を抉らんとしていたかのように伸びたところで、ついに私は声を出すことが出来て、彼女の進撃を止めることが出来た。
「あ、うん」
家内はどこから出たのか分からない冷静な声で返事をした。
彼女によるとこうだ。
「私ね、馬刺しが好きなの。それでね、いつも馬刺しばっかり食べてたら、いつの間にか、売られているものじゃ満足できなくなってきたの」
確かに、言われてみれば、普通の温かい家庭の何十倍かの割合で、我が家は馬刺しが食卓に並んでいた気がする。
―――で、満足できなくなった彼女は、
「私ね、馬狩りが出来るようになったのよ!」
そう言って、彼女は、壁に掛けてあった弓と矢を取り出して、番(つが)えて見せた。
確かに言われてみれば、普通の5階建てのアパートの何十倍かの割合で、矢が刺さった後のようなものがあちこちにあるような気がする。
「それでね、えーーいっ!」
彼女が突っ込んでいったカーテン・・・その向こうは、5階の窓から見える都市の様子ではなく、一面に広がる草原だった。
確かに言われてみれば、最近、普通のLDKの部屋の何十倍かの割合で草いきれの匂いが鼻につくような気がしていた。
「こっちにおいでよ! 楽しいよ!」
家内がそう言いながら、遠くの方に小さく見えるゼブラ馬に照準を絞った。弓を構えて、十分に引いていく。明らかに届かないのが分かる。ところが、家内。そこは唇でなにやらを呟く。すると矢は炎を纏い、糸を引くように一直線にゼブラ馬へと飛んでいった。そして、ゼブラ馬がどう、と倒れるのが見えた。家内は嬉しそうにガッツポーズをこちらにして見せた。
確かに言われてみれば、最近、家内の料理の火加減が何十倍か増しているような気がしていた。
ええいままよ、と私もカーテンへと飛び込んだ。強い日差し。家内はすでにずっと遠くの方で手を振っている。気付けば、隣には乗ってくれよとばかりに鞍の載った馬が用意されており、よっしゃ、ちょっくら、と脚をかけようとしたところ、突然、力なく馬は倒れ込む。見ればまだ幼き我が娘が馬のはらわたを貪り喰っていた。
「パパ、最近おなか出てきたんだからさ、少しは走りなさい!」
娘は二カッと笑って、口の周りは血だらけだったが、それはそれは可愛かった。
確かに言われてみれば、最近・・・ちょっと太ってきたのかもしれない。
見せなければならない健康診断の結果も、知らなければ良かった家内の秘密も、うまくいかないことが、走り出したら全部消えてしまうなんて、そんな風にはいかないのだろうけど。私はヤレヤレとかぶりをふって、それから笑って、今は走って、馬好きの家内のところまで向かった。
(執筆:2018年2月27日 加筆:2025年11月16日)
〜〜あとがき〜〜
私の作品にも家族が登場するようになりました。なぜでしょうね。
午年に改訂してみました。