発酵人間の噂

作・なかまくら

2020.9.21



 ―――――変化がよいものとは限らない


「・・・久しぶり。生きてる?」
 志田弥美(しだやみ)は、影を見た瞬間に、咄嗟に声が出た。手は無意識のうちに既に腰に伸びていて、刃渡りが40cmのナイフの柄に触っていた。この数年で身に付いた能力だった。それから、相手を見ると、それは見知った男だった。

「お前の目が腐っていなければな・・・。」
 想像していたような返答が返ってきて、少しだけ安堵する。
「私の? 私は、この通り。」
「おれも、この通りだ。」
 お互いに両手を広げて見せる。腐食人間ならば、シャツには血がついているものだ。互いの無事を確認すると、あいさつ代わりにハグを交わした。

 それは、確かに記憶の中にある飢杉の声や手ぶりだった。
 そこは、偶然入った民家だった。

「どうしてここに?」
 手近な棚に残されていた缶詰を手元の鞄に入れる。ずいぶんと状態が良い。
「・・・もしかして、住んでるの?」
 暖炉には火が入っており、灰は綺麗に片付けられていた。
「いや、まさか。来たのは、ついさっきだよ。ただ、今夜はここに滞在しようかと思って。幸い、扉の錠は壊されていなかったんだ。」
 飢杉は、そう答えて、缶詰の一つを開けて、携帯コンロで湯を沸かし始める。
「そうなの、それはまたすごい偶ぜ・・・」
 志田弥美が途中で言葉を区切る。飢杉も、それをみて、コンロの火を止めた。二人は呼吸をひそめ、物音を探る。
 静まり返った部屋の中に、暖炉の火の燃える音だけが響いていた。1階の間取りは最初に確認してある。

「今、音がした・・・」
 志田弥美が声にならない声で小さく言った。飢杉はそれに頷く。
「2階・・・だったな。おれが上を見てくる。志田は1階を頼む」

 志田弥美は腰のナイフの柄に手をかける。飢杉は、暖炉の横に立てかけてあった80cmほどの長さの火掻き棒を音の出ないように手に取って、慎重に歩を進める。キッチンに入る間仕切りが引き戸になっていて、それを開けるとその隣が階段だ。カーブを描くその構造が2階の様子を隠していた。飢杉が扉を開けるように志田弥美に目で合図を送って、火掻き棒を緩く握りなおして構える。それを見やって、扉を少しだけ開け、それから一気に開いた。

「何もないわ。」
「そのようだ。」

 ふたりは、ひとつ息をついて、気を引き締めなおす。
「では、おれは2階を。」
「気を付けて。」
「互いにな。」

 志田弥美はその後、脱衣所、風呂場、トイレ、キッチン、クローゼット、勝手口を順に調べていったが、何もなかった。数分後、ダイニングに戻ってくると、飢杉は既に湯を温めなおしていた。

「無事で何より。」
「・・・ああ。そっちも。」

「これまで、どうしてたの?」
 2年前、しばらく戻らない、とそれだけのメッセージを志田弥美に送りつけてきて、飢杉は娘を連れて消えた。そして、ほどなくして、世界は腐り始めた。

「調査に出ていたんだ。」
「ああ、博士なんだっけ? 飢杉博士」
「専門は細菌学でね。呼ばれたわけ。」
「どこへ行ってたの?」
「エジプトの辺りかな。」
 飢杉がお湯を水筒に注いで、それから、コンロを止める。残りの湯を志田弥美はコップに受け取った。それから、飢杉は暖炉の薪をいくつか火箸で掴むと、穴の開いた金属製の缶に移した。そして、上に、ビーフシチューの缶詰を置いて温め始める。
「随分と曖昧ね。」
「国家安全保障のため、らしくて、守秘義務が一応あってな。」
「もう、その国家なんて、どこも機能してないじゃない。」
「まあ、それもそうか。・・・エジプトのスフィンクスは、いつ作られたか良く分かっていないのは知っているか?」
「ええ。ギザの大ピラミッドよりも昔だったかも、みたいな。それくらいしか知らないけど。」
「昔は背中に穴が開いていて、内部に入れた。そして、地下には、記録の間と呼ばれる空間が広がっていたらしい。」
「記録の間? あなた、考古学も詳しいの?」
「いや、だからおれがそこに案内されたときは、不思議に思ったんだよ。だけど・・・。」
 飢杉は、何かを思い出したのか、突然、言葉を区切った。
「志田も、仕事でいろいろ調べていたんだろ? そっちの情報を先に共有してくれないか。対価はビーフシチューということで。」
 きゅう、と腹が音を立てて、口には唾液がにじみ出ているところだった。
「いいわ。それで手を打ちましょう。・・・初めに起きたのは、果実の落下だったわ。品種改良された蜜柑や実芭蕉など糖度の高い果実が一斉に落下した。収穫はまだ先のはずだったのに、急速に成熟したの。そして野菜が続いた。
 同時に人々が感じていたのは、冷蔵していた食品の傷みやすさだったわ。何かが起こっている、と一般市民が気付いた頃には、古い防腐剤を使っている25年以上前の木造家屋が次々と倒壊をはじめ、次にアメーバを構造のモデルとして開発された、ケイ素生物を混ぜ込んだコンクリートで作られたトンネルや橋が腐り始めていたの。それで、交通インフラは麻痺して、世界は断絶されてしまったの。
 それから少しして、空気中に含まれる何かであるという論文が世界のどこかで受理されたと聞いて、伝手を辿って手に入れて読んでみたら、海生生物に変化が見られなかったことを根拠にし
ていたわ。」

「ふむ・・・そうか。」
 飢杉は、しきりに顎をさすり、頷きながら話を聞いていた。
「この街で最初に動物に異変が起こったのは、犬だったわ。犬が小動物を片っ端から襲ったの」
「ほう」
「しかも、なぜか子どもばかりを狙うの・・・。まあ、人間も一緒ね」
 志田弥美は、ポーチから銀のスプーンを取り出して、きん、と弾く。
「食べてもいい? 私、ペコペコで・・・。」
「ああ・・・。毒なんて入ってないぞ。」
「念のためよ。ありがたくいただくわ。」

「・・・うまいか?」
「・・・ええ?」
 志田弥美の心に、一抹の不安がよぎって、飢杉を見て、それからスプーンを盗み見る。特に変色した様子はなかった。味もおかしくない。

「犬から始まった動物の腐食は、半年もかからずに、人間の腐食に到達した・・・。」
 飢杉はそれに気づいた様子もなく、その続きを口にした。
「そうよ、信じられない光景だった。昨日まで愛してやまなかった我が子の腕を突然齧り出す母親、白目をむいて掴みかかってくる父親をバットで殴り飛ばす息子・・・。悪夢だったわ。でもそれは、・・・果物やコンクリートが腐食するのとは、どこか異質なものに思えたの。」

 飢杉は取り出した干肉を齧りだした。少しの沈黙が流れる。
 志田弥美はそれが気味悪く感じられて、口を開いた。

「私の話は、そんなところ。それで? スフィンクスには何があったの?」

「ああ。詳しくは分からなかったが、どうも、それは魂についての記録だったようだ。ミイラが作られたのは、『第二の誕生』に備えて、魂の帰ってくる肉体を維持するためだったそうだ。それからは、世界中で症例を当たっていた。最初は、世界で初めて都市人口が1億を越えた積層都市・彫狸だった。その都市の患者たちはどう見てもおかしかった。欲、というものが極端に偏ってしまっていた」
「欲? おなかが減ったとか、眠りたい、とか?」
 志田弥美は思わず嚙んだスプーンから金属の味が伝わってきて、苦い顔をした。
「ところが、そうばかりじゃないんだ。人を陥れたり、傷つけたりする欲求に際限なく駆り立てられる人もいた。それは満たされることなく、その行動をとり続けるんだ。
 この謎の病気はやがて、第三の症例に至った。それは何かの光にとらわれ続ける人。」

「・・・え?」

「虚空を見つめ続けていたんだよ。その眼には何が見えていたんだろうな。どんな手段を使っても、視線を外させることはできなかった。この症例を我々はイデアと呼ぶことにした。」
「プラトンの? 完全な真実? ・・・現実は真実の影であり、我々は影を見ているに過ぎないとかっていう・・・あれ?」
「そう。我々の背後には真実の世界があって、おれたちは、その影を洞窟の中に見ているのだ、という。その症例の名前を誰が付けたかは分からないが、不思議と腑に落ちた。ああ、そういうことかと思った。」

 ビーフシチューに伸びる手はいつしか止まっていた。
 志田弥美には世界の真実に迫っている確信があった。傍目から見ればそれもイデアを求める患者のようだったかもしれないが、このときの志田弥美には、自覚症状がなかった。

「症例イデアは、この腐食現象に関係があるの?」

「当初、人には感染しないだろう、といわれていたから、初めはおかしなことが次々起こる大変な時代が来たものだ・・・なんて思っていた。だが、研究結果を聞けば聞くほど、不可思議な話だというじゃないか。」
「そうね、不可思議な感染症よ。そもそも、感染者からウイルスも細菌もいまだに見つかっていない。だから、今に及んでも、そもそも感染症など存在しないはずなのだ、と言い出す専門家がいる始末だから。」
「古代エジプトでは、死者も食事ができると考えられていたらしい。」
「死者も?」
「ああ。彼らは、食物の『カーウ』と呼ばれる物質ではない部分を食べると考えられていたんだ。」
「物質ではないものを食べる・・・。」
「・・・すまない。トイレだ。志田も冷める前に食べてしまってくれ。」

 そう言って、飢杉は席を立って、2階へと上がっていった。志田弥美は、一つ息をつき、ビーフシチューを口に運ぶ。志田弥美の手が止まる。トイレは1階にあったが、2階にもあったのだろうか。それとも他に何か・・・。

「待って・・・。」
「なんだ?」

 独り言のつもりで言った言葉に、戻ってきた飢杉が返事をする。
 おかしいわ、と言おうとして、喉の奥で急ブレーキをかける。
 「・・・あなたの分はあるの? 貴重な食糧だもの、やっぱり悪いわ。」
 志田弥美は声が震えるのを必死に抑えて、差し障りのない話題を慎重に選んだ。

「今更、渡されても口を付ける気にはならないけどな。」
 飢杉は苦笑した。その笑みに先ほどまでとは違う、言いようのない気持ち悪さを感じた。ビーフシチューが絵の具のようにカラフルな成分を内包しているように、胃の中でグルグルと回転し始めたように感じる。

「ねぇ、そういえば娘さんは・・・?」
「キャンプに置いてきているよ。」
 飢杉は落ち着いた声で、そう答えた。
「じゃあ、早く戻らないとね・・・。」
「そうだな。」
「一緒に行ってもいい? 久しぶりに会いたいな。」
「いや、すまないが・・・。」
 飢杉は申し訳なさそうではない顔でそう言った。どこのキャンプの食糧事情もギリギリだった。それに、なぜか人が集まるところに、感染者も集まってくる。分かっている。人の増減の管理は厳しかった。分かっている。

「ねぇ、哲学的ゾンビって言葉があるじゃない。」
 志田弥美は唾を飲み込んだ。
「ああ・・・。」
「さっきの話の続きなんだけど・・・。」
「娘の・・・?」
「いいえ、症例イデアの患者たちの話。私の命のあるうちに、教えて。あなたがどこまで掴んでいるのか。本当はなんのために、あの時、街からいなくなったのか。」

「・・・・・・。」

「意識(クオリア)のない人間を哲学的ゾンビと言うわけだけど、症例イデアの患者たちはそういう存在なんじゃないかって、・・・あなたの話を聞いて、私は思ったの。そして、2つの間には共通点がある。つまり今、起きているこの現象もその延長線上にあるって・・・もしかして、そういうこと・・・。」
「そうだ、いいぞ、目覚ましい進歩だ。」
 飢杉の声はひどく穏やかで、それでいて興奮が伝わってくる。手にはいつからか火掻き棒が握られている。力感はなく、ただひたすらに不気味だった。
「だから、この腐食現象には確かに、ウイルスも細菌も関係がなくて、世界を蝕む哲学的な病変だということ。だから、私たちがこの数千年、培ってきた科学的手段では対抗できない、ということ・・・。」
 飢杉は、少しだけ思案して、
「きっかけは、高度に発達し始めた情報化社会なのかもしれないと、おれは考えている。情報が飛び交い、その曝露を受けるうちに、ヒトの意識は随分とぼんやりとしたものになっていった。画面に向けて、ぼーっとしている姿は、君にも見覚えがあるだろう。そこをだな、少しだけ食べやすくして、パクっと・・・。」
 手が口の形を作って、それから何かを咀嚼する真似をして見せる。

 2階から確かな物音がする。もはや気のせいではない。やはりさっきからずっとそうだった。ただ事実から目を逸らそうとしていただけだったのかもしれない。久しぶりに再会した飢杉に・・・外れ者だった生物部の二人が、生物室で、放課後の教室で、過ごしたあの日々が原風景のように遠くに浮かび上がってきて、それが愛おしく思えて、そうしたのかもしれない。

「あなたは、いったい誰なの!?」
 志田弥美は叫びをあげて、その思いを振り払う。得物を掴んで飢杉と十分な距離をとる。
 手には刃渡り40cmほどの銀のナイフ。どこかの酔狂なお金持ちが作らせたものだろう。大きな屋敷から拝借して以来、志田の命を守り続けてきた武器。銀色に光る刀身に飢杉の姿が映っている。その色は燻(くす)んで見えた。

 再び、2階から音がする。ベッドから降りて、歩いている音だ。
 飢杉は上を向いて、それを確認する。

「おしゃべりが過ぎたようだ。娘が起きてしまった。」
「飢杉・・・あなたはまだ、そこにいるの?」
「今が大事な時なんだ・・・。悪いがもうあまり君の相手をしていられない。」

「私もそうよ。・・・雄弁は銀、毒を払ったりもするのかもね。ここでも、効力を発揮してくれると嬉しいけど。」
 志田は、そう言いながら、出口を目指してじりじりと位置取りをする。その様子を見ていた飢杉は棚から小瓶を取り出して、志田に向けて転がして寄越した。

「なんのつもり?」
「それは、シチューに含まれる・・・君にとっては毒として作用する概念を解読する薬だ。」
「概念を解読する・・・?」
「試作品だから、ちゃんと作用するか、保証はないが・・・。おれとしても、ゾンビになった君に会いたくはない。受け取ってくれ。」
「・・・・・・一応、もらっておくわ。」
 志田弥美は、飢杉から目を離さずに、瓶の位置を確認して素早く拾った。

 飢杉はそれを見て、ふっと笑った。
「志田。おれはこの腐食現象に対する答えを見つけようとしている。娘がそのヒントになると考えている。」
「娘さんが・・・? へぇ、良かったわね。娘さん、大丈夫なの?」
「腐食とは腐ることだ。だがな、志田。数えればきりがない。醤油、味噌、チーズ、ヨーグルト・・・。我々は古くから知っていた。利用してきたんだ、腐るという現象を。」
「それは腐っているわけじゃない。発酵というのよ。」
「人がそう呼んだ。そういう変化の仕方を知っていた。我々はやがて腐る。新しい血肉を生きている限り取り込み続けても、やがて訪れる腐食から逃れることはできない。ならば・・・ヒトを発酵させることもできるんじゃないか、とおれは考えた。」
「なによ、それ・・・。」
「志田。一緒にそれを見ないか・・・?」

 その顔を見た瞬間、志田弥美は叫んでいた。

「私は生きる! 生き延びるの!」

 志田弥美は、扉へと走った。かかっている鍵を開け、外へ出ると、遠くの方に意識(クオリア)を失った腐食人間が彷徨っているのが見えた。それを大きく回避してキャンプへと戻るルートをはじき出す脳の片隅に、飢杉の表情がこびり付いていた。最後に見たその顔は、志田弥美にとって忘れられない顔となった。それはあの、生物室での姿と変わらない、志田弥美の好きだった飢杉の顔のままだったのだ。けれども、その意味はきっと変質してしまったのだ。

 症例をイデアと呼称した理由も分かる気がした。


(執筆:2020年9月21日  加筆:2025年10月20日)







<>あとがき<>

発酵人間という言葉にしばらくとりつかれていました。