蛙
今日も暑い日だった。休日出勤でがらんとしたオフィスでぽつぽつ、とモニターに電源が点り、カチャカチャとパンタグラフやメカニカルなキーボードのキーを上下させる音が鳴っていた。Yシャツの襟元を開けて、卓上扇風機の風に汗を逃がしながら黙々と残務を片付けていった。ひとり、またひとりと消えて、夜になっていた。面倒なことばかりなのだ。気を遣うことも多い。仕事は思い通りには行かない。積極的に動こうという人はいない。そのくせ、自分に少しでも飛沫が掛かろうものなら、激烈に邪魔をするのだ。あまつさえ、自分は損をしなくても他人がそれで得をすると聞けば、文句を言う始末だ。それで予定よりも随分と難航していた。考える義務はないことを延々と考えてしまい、その考えが次第に悪い方向へと転じていく。それを押し留める余力はすでに残されておらず、想定の中では最悪の結末に辿り着く過程を何度も辿って、それを否定して、その直前に戻って、徒労感だけが残る。それをストレスというのだろう・・・。
それでも、なんとか今日の船旅を終えて、車に乗り込み、エンジンをかける。するとディーゼルエンジンの低く確かな振動が身体に伝わってくる。それをひとしきり味わってから、ハンドルを切り、会社の駐車場を出た。
夜の道を光が切り裂いて進んでいく。暗闇の中に明るい場所を作りだし、暗くなる前に通り過ぎることを繰り返していくと、アパートが近づいてくる。運転に集中はしていなかった。仕事のことを頭の隅に追いやろうと、先月入ったボーナスの使い道を考えていた。車にウイングでもつけようか、とは前から思っていたことである。地道に稼いだお金が翼に変わるとはなんとも風刺が効いているではないか。既に取り付けられているフロントのエアロパーツとサイドスカートが正面から吹き付ける風を切って、車を前へ前へと力強く進めている。後ろにウイングがついたら、いよいよ離陸だってできそうだ。駐車場に入るために、曲がったところで急ブレーキを踏んだ。
蛙が居た。
大きな蛙だ。いや、大きくはないが、蛙には違いがない。
蛙にしては大きいかもしれない。頭を上げて、こちらを見ていた。
発光ダイオードの目がギラギラと輝き、エアロパーツでトッキントッキンの形相の車を見ていた。
蛙の色は暗い土色で、暗闇の中でなぜ咄嗟に気付けたのかは分からない。ただ、その蛙は、夜空の暖かい星々の明かりの下に、確かな存在として目の前に居た。そして、その確かな存在感が伝わってきていた。私はサイドブレーキを引いて車を降り、蛙に近づいた。蛙は動かない。その脇腹をつついてみると、思った以上に温かさと柔らかさが伝わってきた。なるほど大きく息を吸って身体を膨らめていた。だが、つついても蛙は動かなかった。いや、動けないのだ、普通なら。突然に現れたギラギラと目の輝く巨大な未知の動物を前にしてどうにも身体が竦(すく)んでしまったに違いない。けれども、蛙は違った。蛙はすっくと頭を上げて、身体を目一杯膨らめて、存在感を放って見せたのだ。だから、私は蛙に気づき、足を止めたのだ。私は蛙を両手にすくい取り、近くの畑へと放った。
それから、車へと戻る。そうだ、やっぱりウイングをつけよう。おそらくそれは風を切るからではない。社会の中に埋もれそうで動けない自分の、ささやかな抵抗なのだと思った。
(執筆:2021年7月23日 加筆:2025年11月9日)
<>あとがき<>
私小説みたいなものを書いてみました。