あの日のこと
彼女・朝比奈八重(あさひなやえ)が時計修理技能士という職業に就きたい、と聞いたときに思い出したことがあった。
学校教育の総花的な取り組みに忙殺され、雑多に記憶された音の一部として埋もれていた。その言葉が、進路相談に来た生徒の一言で不意に蘇ったのだ。
「辰野先生?」
怪訝な顔をして、こちらを見つめている生徒が立っていた。
「え? あ、ああ・・・。うん。」
素直で、真面目な子だった。心から応援してあげたくなるし、幸せになったらそれを祝福してあげたい子だった。
「それで、相談というのは・・・。」
「親からは反対されているんです。そんな職業についてちゃんと食べていけるのか、普通の・・・もっとお金が稼げる大企業に就職できるような進路を選びなさいって。」
「ご両親とは意見が一致していないんだね。」
「はい。私の幸せを思って、言ってくれているのは伝わってくるんですけど・・・。」
「でも、なりたいんだ。」
「はい。」
真っ直ぐな瞳が自分の未来を見つめていた。
ひとつ息をついてから聞いてみる。
「理由みたいなのってあるの?」
「私、お祖父ちゃんっ子だったんです。」
「へぇ。」
「両親は仕事が忙しくて、あまり家にいなかったから、いま好きなものはほとんど祖父から教わったことなんです。あ、前に褒めていただいた旧東京駅の模型・・・」
「写真部の展示と一緒に飾られていた模型のこと? あの」
「そうです。あれも、もともと祖父の趣味でした。それで、祖父が大切にしていた懐中時計を私が相続しました。」
「ほう。」
彼女が取り出した時計は、随分と古いもののようだった。赤みの強い黄金色の真鍮のケースは良く磨かれていて手入れが行き届いていることが感じられた。
「いい時計だね。それに大切にされている。」
彼女はそれを聞いて、目が線になるくらいニコッと屈託なく笑って、喜んだ。
「ありがとうございます。でも、いまはもう動かないんですよ。」
「童謡『大きなのっぽの古時計』を思い出した。」
「あー、分かっちゃいますか? 私、あの曲を聞くたびに号泣なんですよ。」
「でも分かったよ。その時計、自分で直したいんだ。」
「はい。」
でも、その後は・・・? とは聞かなかった。人生とはそういうものであっていいのだと、思ったからだ。強い思いは、本来起こるはずのない事象を揺り起こすことがあるのだと思う。
*
「・・・とはいえ、どうしたもんかな。」
キーボードを打鍵して、ディスプレイに検索結果が列挙されていく。
時計修理技能士の収入は、大手メーカーに就職できれば良いが、下請け業者になると自立した生活が難しくなることもあるようだ。器用にコネクションを作って業界を渡り歩いていければ良いものの、いろいろなしがらみがあって、大変そうな職業である。
ご両親も同じようなことを調べたのだろう。だから、反対するのも頷ける。まだまだ人格的に完成されていない多感な時期に、将来を大きく絞り込むような選択をさせるのは、身近な大人としては同意しかねるし、それを周りの大人が少しも考えずに、手放しで応援するのは義務の放棄に他ならない。いろいろなリスクがあることを想像のテーブルにできる限り並べ、それを吟味させたうえで進路を決断できるように取り計らってやりたい。
机の上の置時計に目をやる。盤面の裏に思いを馳せる。大小さまざまな歯車やそれを橋渡しする部品が複雑に配置され、発条(ぜんまい)がくるくると回っている。その振り子運動を遅滞なく送り出し、几帳面に時を刻んでいく。それは社会の仕組みのアナロジー(相似)によく例えられるものだ・・・。
「どうしたもんかな・・・。」
もう一度呟く。時計修理技能士、と聞いたときに思い出したのは、短編小説を投稿するサイトのオフ会で対面した人のことだった。あの頃は、いつか作家になる自分を信じていた。すべての勉強は物語の種であり、すべての時間は物語を書くために惜しみなく費やした。投稿サイトでは評価も高く、けれども、一歩を踏み出せなかった。その時はいつでもそこにあったのだ。本の巻末の文学賞の応募、駅舎の壁を彩る小説公募のラッピング。だが、その一歩は、踏み出されなかったのだ。物語の種のつもりで積み上がってきたものが、いつの間にか手放し難くなっていたのだ。オフ会で会ったあの人は、趣味でやっていると言っていた。そして、本職は時計修理技能士と言っていた。覚えているのは、時計を使った手品を見せてくれたからだと思う。確かペンネームを〈カンパン〉さん、と言ったと思う。
一つ目の手品は昭和五十七年の十円硬貨の時間が10年遡り、昭和四十七年の十円硬貨になるというもので、オフ会のメンバーからも『硬貨を入れ替えただけじゃないか』と温かいツッコミが入って、お笑いのうちに終わった。けれども、彼が二つ目に見せた時間を消し飛ばす手品は理屈が分からないままだった。腕時計の秒針を片時も目を離さずに見ていたはずで、けれども、ふと気が付くと一時間が経っていた。それはほんの数秒の出来事のように感じたというのにだ。参加したメンバーもそれぞれ社会人になってしまい、音沙汰がなくなって久しい。けれども、ダメで元々、と思い、寂れた投稿サイトのメッセージ機能を使って送ってみることにした。
*
家に戻ると、スマートフォンに通知が来ていた。『お久しぶりです! 投稿サイトのパスワードは忘れてしまったので・・・』という書き出しで始まる文章は、投稿サイトにログインするために使っていたSNSに送られてきたメッセージだった。そして、協力いたしましょう、という肯定的な回答が続いていた。
朝比奈にも事情を説明したところ、是非あってみたいとのことだったから、トントン拍子のうちに、生徒と3人で会って話ができることになった。待ち合わせの駅の時計台の下で待っていると、声を掛けられる。
「〈竜田揚げ専門店〉さんですか?」
自分のペンネームだった。
「えっと・・・〈カンパン〉さん?」
そう確認すると、
「はい。」
頷いて『彼女』は笑った。
そこには、目が線になるくらいニコッと屈託なく笑う女性がいた。
*
朝比奈との待ち合わせ場所にしてある喫茶店までの道すがら、考え事が止まなかった。
「女の人だったかな・・・。」
ひとり、口の中で唱えてみる。何しろ、十年前だったから、インターネット上でのやり取りは覚えていても、たった一度だけ開催されたオフ会のことをはっきりとは覚えていなかった。だが、そんなにも覚えていないものだろうか・・・。だが、今日は東京から来てくれたという〈カンパン〉さんは、昔、互いに書いた作品のことやチャットで感想を言い合い、磨き合ったことを覚えていて、それはまさしく〈カンパン〉さんのように思えた。
悪戯好きっぽいところはあるが、悪い人ではない、と結論付けて、〈カンパン〉さんを朝比奈との待ち合わせの喫茶店に案内することにした。
そこからは互いに挨拶をして、仕事のこととか、業界のこととか、いろいろと話してくれた。『やっぱりお仕事大変ですか?』と朝比奈が聞くと、『大変なことはたくさんあったけど、私は今の自分を目指してきたことに後悔ないよ。』と〈カンパン〉さんは背中を押してくれた。
知り合ったきっかけである趣味のことも少し照れたが、彼女が是非に、というから、先ほど、〈カンパン〉さんと道すがら話したように、互いに書いた作品のことやチャットで感想を言い合い、磨き合ったことを話した。〈カンパン〉さんが例によって時計の手品も見せてくれたときはアッと驚いて、それもあって、あっという間に時間は過ぎた。
朝比奈とは喫茶店でそのまま別れて、〈カンパン〉さんを駅まで送った。駅の改札の前で、別れの挨拶になる。
「今日はありがとうございました。きっとあの子にとってかけがえのない経験になったと思います。」
「少しでもあの子のお力になれていれば嬉しいです。」
「お仕事の魅力、伝わってきましたよ。」
「それは良かったです。〈竜田揚げ専門店〉さんは、今も先生、頑張ってるんですね。」
「〈カンパン〉さんも、時計修理技能士、大変そうなお仕事ですけど、頑張ってください。」
「今日は久しぶりにお会いできてよかったです。」
〈カンパン〉さんの真っ直ぐな瞳が自分を見つめていた。
「・・・もう物語、書かないんですか?」
誤魔化すように目を逸らして、そう言ってしまう。
「素敵な物語に出会えたときには、書いてみたいです。」
「そうですか。出会えるといいですね。」
「ええ。先生も、ですよ。」
「はい。」
二人して少し笑って、それから彼女は懐から赤銅色の懐中時計を取り出し、電車の時間を確かめる。ちょうどホームに電車が近づいてくる音が響いていた。
「それじゃあ、また。」
「また、ですね。」
そう言って、彼女は行ってしまった。最後までどうしても聞けなかったことがあった。あのとき、あの喫茶店のトイレで、スマートフォンに眠っていたあの日の写真を見つけていた。オフ会に参加したみんなで撮った集合写真。解像度が低い写真であったし、影も入っていた。けれども、その中に彼女らしき人はいなかったように思う。〈カンパン〉さんは朧気に覚えていた通りの同じ年くらいの男性だった。何しろ10年以上前の話だから、なんと聞けば良かったかも分からなかったのだ。「性転換したんですか?」とでも聞けば良かったのだろうか。それとも・・・。
いやあるいは、彼女もそんな感想だったのかもしれない。
(執筆:2023年4月30日 加筆:2026年1月4日)