ライオンを磨く男
新作のアイデアがどうしても思いつかないときは、散歩をするに限る。
ぼくにとってそれは染み付いた習慣であり、それには最早あまり効き目がないことも分かっていた。とある出版社の短編小説の公募で佳作に選ばれたぼくは、社会に小説家として名乗りを挙げた。当時のぼくにとって、物語を書くことは呼吸をするくらい自然な営みであり、出版するにあたっての編集者からの要望にも快く応じた。日々感じる喜びや驚き、怒りや悲しみを物語に昇華させることは、ぼくが与えられた人生の使命だと思っていた。そんな時期もあったのだ。いまとなっては、ありもしない糸口の先端を引き摺り出そうとして、こうして歩いてみたりしているのだ。
夏の暑い日のことだった。
「今日はもう少し遠回りしよう。」
いつもなら引き返す分岐点で異なるルートを探索することを選ぶ。
けれども、それはそれでもはや見知った道なのだが、考えることはやめにする。
汗がわきの下でシャツを濡らし、水分を失った喉が渇きを訴えてくる。汗が唇を濡らし、口の中に侵入する。『潮時』という言葉がこれまで何度も浮かんでは無理やり沈めてを繰り返していた。才能が枯渇したのだ。やめるんだ、もうこんなことは。そんな自分からの訴えに耳を貸さず、ここまできた。そして、まもなく見えてくるだろう、公園を目指す。
公園には、水飲み場があり、ぬるい水が出てくる。それをたらふく飲んでしまおう。きっとそうしたら、帰り道を考えることにするのだ。寂れた公園ならば、苦悩を見る影もない。だが、誰にも見られていないことが、心地よかったのを覚えている。
そういえば、動物が置いてあった。カバの像とキリンの像と、それから、あといくつかの動物たちだ。その背中に乗って、ひと休みするのが良いかもしれない。今日はいつにも増して、疲れてきていた。
公園につくと、男がいた。ぼくは、草食動物がそうするように、横目に男を意識しながら水飲み場まで行き、喉を潤すと、それからゆっくりと男へと近づいて行った。
男は襤褸布を手にライオンの像を磨いており、その身なりは汚れてはいるものの、浮浪者といった風ではなかった。
「こんにちは。」
ぼくの言葉に驚いたように、男が振り向いた。どこかで見たような顔だった。
「あの、すみません、驚かせてしまって。こういうとき、なんて声をかけていいのかわからなくて。掃除をしているんですか?」
男はズレた眼鏡を直すと、ぼくを上から下まで観察して、それから、なぜだか少し、ほっとしたように言葉を返してくる。
「こんにちは。暑い日ですね。」
「清掃業者の方ですか? 大変ですね。」
ぼくがそう言うと、
「いえ、そういうわけではないのです。これは、私なりの戦い方なのです」
男はそう言って、ライオンの肋骨のあたりの苔をこすり取った。
「あなたはどうしてここへ?」
男が尋ねるので、
「いえ、その・・・散歩をしていたらここに。そして、あなたがいまして。」
「なるほど。」
ぼくの答えに、男はただ、そう返す。
「・・・あなたはどうしてここに?」
「私も同じようなものです。」
ぼくの問いに、男はただ、そう返した。
ほかに、問うこともなく、男はライオンの像を磨き、ぼくはそれを見ていた。
ライオンの像は、随分と長いこと手入れをされておらず、コンクリートで作られたその像の造形は苔に覆われ、随分と曖昧になっていた。男はその苔を丹念に取り除いていく。襤褸(ぼろ)布が石と擦れあう音だけが聞こえていた。
ぼくは、意味もなく喉が渇いたような気がして、もう一度水飲み場へと足を運ぶ。
「あの。」
「なにか。」
「ぼくが散歩をしていたのは、その通りなのですが。」
「ええ。」
男が手を止めてこちらを向く。汗が垂れた眼鏡を男は外した。その顔に見覚えがあった。期待の新星として新聞を飾っていた男だった。それが同じように落ちぶれた者に対する安堵のようなものなのか、それとも何か別の感情だったのか、それは分からなかった。ただ、無表情からくるコミュニケーション能力不足には自信があり、おそらくそれらの感情は顔には出ていなかった。だから、そのまま続きを話すことにした。
「ぼくはいつもと違う何かが起こらないかと思って、散歩をしていました。小説家なんです。売れていないですけどね。」
ぼくがそう言うと、男は、少し考え込んだ後、自分自身のことを話し始めた。
男は、陸上選手だという。男が高校生の時分には、記録がメキメキと伸びたのだという。自分には才能がある。ほかの人にはない、選ばれたもののみに与えられる才能が。大学も推薦で進学して、社会人になってからもスポンサーがついたという。
男はぼくに出会ったとき、ぼくが男を知らなかったことに安堵したのだと笑った。
「私にかけられた魔法はけれども、消えてしまったんです。いくら練習しても、あの頃のように伸びはしないのです。魔法の中にいたときは楽しかった。夢中だった。気づいたら周りの仲間たちは普通の人生を生きていて、スーツを着て街を駆け回っていたり、結婚をして子供たちと駆けまわったりしている。けれども、私の魔法は少し効き目が強すぎて、そして長すぎたんです。私は今も陸上競技場のトラックを回り続けている。」
ぼくは、強くそれに頷いた。ぼくもまだ、原稿用紙の上でもがき続けている。あの頃どうやって書いていたかは、もう思い出せないというのに。
「若い選手はメキメキと力をつけてきています。引退の2文字が頭をよぎることも一度や二度ではありませんでした。なんなら、今もときどき。」
男はそう言って苦笑する。男の言葉に呼応するように、ざわざわと木々が揺れ、その揺れはぼくの心の中を見透かしているようだった。けれども、夏の日差しは強く、いまはその木々の揺れる合間から、木漏れ日さえも突き刺すように漏れてきていることにも気づいていた。
「だから、私は私の中のライオンを磨くことにしたのです。燃える心だけが、魔法の切れていない若者たちと戦い続ける唯一の手段だと思うから。」
この男は諦めていないのだ。魔法のないぼくたちが、戦う方法に気付いているのだ。
「ぼくも、手伝ってもいいですか?」
ぼくは男を手伝って、ライオンを磨いた。汗がとめどなく流れても、一心に磨き続けた。爪の間に泥が混じり、指先が不意に露わになったコンクリートに削り取られる。それでも頑強にこびり付いた苔を取り去っていく。目を覆い、口も鼻も覆われていた。それは、虚飾に塗れた現在のぼくの物語そのもののように思えた。ぼくにとって物語はもっと純粋な欲求が形になったものだった。それをいつの間にか、ぼくは忘れてしまっていたようだった。
作業をすべて終えると、ライオンは本来のその複雑な造形を取り戻し、誰もいない公園に君臨した。
水飲み場でぬるい水をたらふく飲んだぼくらは、その雄姿を満足気に眺めた後、それぞれの戦いに戻っていった。