WORKSHOP
ぼくは戸惑いの中にいた。
駅前のビルの7階にセミナー室がある。そこで開催されるビジネスマナー講座に参加していたのだが・・・。
買ったばかりのビジネススーツは、身体を置いてきぼりにしてそこに起立している。なんなら、中身が入っていなくても関係なく、そこに立ち続けているのかもしれない。
大学は親と先生に勧められるままに工学部に入った。親元を離れて都市圏に程近い公立大学だった。けれども、大学3年の夏が終わろうとしている今となっても、工学の何たるかは分からないままだった・・・。「千尋さん、あなたの番ですよ」。講師の先生がぼくの名前を呼んでいる。『快活で明るい表情を作り、皆さんにあいさつをしましょう!』という実践の時間だったが、ぼくの指先は何かを求めて彷徨っていた。
「工学のなんたるかが分からない? それ、べつに普通じゃない? 私も全然分かんないよ。」
アパートの自室でぼくがエントリーシートを書いているとき、弐羽(ふたば)はハミングしながら、メロディを楽譜に記していく。来月に迫っているサークルの定例発表会のための新曲だった。
「あ、ベース、ここ鬼ムズかも。よろしく。」
「・・・弐羽はさ、仕事どうするの?」
「私?」
そこで弐羽は、初めてそれに気付いたみたいな顔をする。
「大丈夫、私は上京して音楽やるから。就職するなら首都圏かな。あとはバンド活動に理解のある会社じゃないと厳しいかな。」
「そうか、そうだね。そうしたらぼくもそっち方面のほうがいいのかな。」
「そうなったら私としては嬉しいけど、私、1年先に卒業しちゃうから。先に行っちゃうよ。」
「それって、暮らしていけるかな・・・。」
「ああ、大事だよねそれ。よく言われるよ。うちの両親はやれるだけやってみろ! って言ってくれてるからいいけどさ・・・。でも、私は嫌なんだなあ、だって、いま千尋がやってる就活ってさ、デパートのショーウインドウに並んでるお仕事を選んでるみたいだもん。私は、私の道の先で、私の仕事を見つけたいから。」
こういうとき、弐羽はどこか遠くのほうを見つめる。きっとその方向に未来があるのだ。ぼくには見えない光の集中線が見えているのだ。そしてその先にある星の輝きも。
弐羽は、ひとつ年上だったけれど、サークルに入ってすぐに仲良くなった。ちょうど、ベースをやっていた相方と別れて(音楽性の違いという言葉を初めて現実世界で聞いた)、ベースを探していたという。ぼくは彼女に連れられるままに、いろいろな場所へ遊びに行き、いろいろなことを体験した。普段大学ではTシャツにジーパンみたいな彼女が、張り切って袖口にウェーブがかかった水色の可愛い『お洋服』で現れたときは、少しドキリとしたけれど、不器用なぼくは小声で似合っているね、というのが精一杯だった。
彼女の作る曲が好きだった。リズムは少し難解で、メトロノームを睨みながら、繰り返し練習しても、なかなか合わせられなかった。でも、彼女の『やってくれるじゃないか』というご満悦な表情と、お客さんからの拍手がぼくを練習に向かわせていた。
*
就活の準備を進めている中でも、アルバイトは変わらないペースで続けていた。アルバイトは、弐羽の紹介で、大学の近くのローカルコンビニ『銀河マート』で働いていた。店長が面白くて、すごくいい人で、良いバイト先だった。
午前0時を過ぎた頃で、「あとよろしくー!」と言って店長は既に帰っていた。翌日分のお弁当などを運ぶトラックが来たので、商品を受領してぼくは品出しを始めていた。
「おっす!」
呼び止められて、振り返ると弐羽がいた。
「眠れなくてさ、来ちゃった。やることある?」
そう言って、彼女は賞味期限の切れた惣菜パンを物色し始める。それは良くあることで、店長は了承済みだ。
「やることがあるので、終わるまで裏でゆっくりしてて。」
「かしこまり~。」
彼女は額に敬礼の手を当てて、くるりと回れ右をして、バックヤードに消えていった。
ふぅ・・・、と長い息をひとつ吐いた。
延々と流れ続けるコマーシャルは夜の間は止めている。細野晴臣の「銀河鉄道の夜」の物悲しくも重厚で、荘厳な旋律が、空気を伝わって流れてくる。
「なんという選曲・・・。」
ぼくは独り言ちて、品出しを続ける。たぶん、彼女が新曲のインスピレーションの参考にしているのだろう。これが魂を揺さぶる作品たちに変わるのだから、彼女の才能は凄いものだと思う。出会ってからも、そんな引き出しもあるのか、と驚かされることが何度もあった。ぼくは、今の彼女にすら、吹き飛ばされないように、必死にしがみついているしかない・・・。
気が付けば、彼女の旋律に合わせて、自然と指がリズムをとっていた。弦を弾くたびに固くなっていった指先が滑らかに独立して動き、コード進行を即興で作り出している。曲が繰り返しの中で徐々に盛り上がりを見せ、そして終わる―――。
すると、ガコン、と何かが切り替わる大きな音がした。
それから立て続けに地響きが起こり、ぼくは近くの棚にしがみつく。
バックヤードから弐羽が飛び出してきて、レジのカウンターにしがみついているのが見えた。
そして、それは収まった。
「え、何、地震?」
彼女はそういうけれど、ぼくにはまったく別のものが見えていた。
―――外の風景は銀河だった。
ぼくたちのコンビニ『銀河マート』は、大気圏をとうに脱出し、星雲の中を横切っていた。星座を構成する恒星のひとつに近づいて、その引力を利用して方向を変えた。
「え、え・・・? うーんと、きれい。」
ぼくは弐羽がそう感想を述べているのを聞いていた。
時間が流れているのかどうかも分からなかった。メトロノームがあれば、どのように振れるのだろう。ふたりでそれをしばし眺めていると、どこかに停店する。入口の自動ドアが開いて、来店音がポロロ~ンと鳴って、電車の車掌さんといった風貌の若い男性が現れる。髪型は短く刈り込まれていて、どこか時代を感じた。大正時代くらいの車掌さんってきっとこんな感じだろう。扉は閉まって、『銀河マート』は再び銀河を渡っていく。
弐羽が果敢にも話しかける。
「車掌さん、車掌さん。」
すると車掌さんはこちらを向いて、笑顔を見せる。
「はい。車掌です。」
「あれは何ですか?」
「あれは星が集まっているんですよ。」
「星が。」
「宇宙の星は全てが輝いているわけではなくて、自ら光を発する恒星と恒星から光を受ける惑星があるんですよ。本当は中心に近づくともっと明るいのですが、周りをガス状の小さな粒子が包んでいて、朧月のようにぼんやり見えるのです。」
「車掌さんはあの星の近くまで行ってみたことがあるんですか?」
「え?」
ぼくには車掌さんが、一瞬、悲しそうな顔をしたように見えた。
「だって、とっても明るいって、知っているから。」
「そうですね・・・。昔は私も君たちと同じ歳だったことがありました。」
「ええ。」
「私の隣の星が、明るかったのです。」
「はい。」
「私もひときわ大きく輝いてみましたが、いくら背伸びをしてみても、彼女の目線はもっと上を見ていました。」
「その彼女は背が高かったんですね。」
彼女は、ぼくにはうまく理解できない相槌を返し、車掌さんはそれに微笑みをもって頷いて、そうですね、と言った。それから、こう尋ねた。
「あなたは、牛乳が好きですか?」
「好きですよ。」
「私は牛乳を飲むとすぐにお腹を壊してしまうんです。」
「だから、諦めてしまったんですか?」
それは少し長い沈黙だった。
「・・・そうかもしれません。でも、本当のところは分かりません。」
「どうしてですか?」
「お恥ずかしい話なんですが、私は大人になろうとする自分が、次第にやりたいことよりもできることを探していることに気付いたんです。それは私にとって、良い変化だったと、今では思っています。」
車掌さんは昔を慈しむように思いを馳せているのだと思った。そしてそれは、ぼくの心の鐘をひとつ静かに鳴らして、身体を響かせた。ぼくが学んできたこと。工学の何たるか、なんてわからない。ぼくの練習してきた指。固くなった指先は何かを求めて彷徨っている。できることをする・・・。
弐羽は少し考えて、それから不思議そうに尋ねる。
「車掌さんは例えば、星が好きだから、とかそういう理由でこのお仕事をしているわけじゃない?」
「私は、満ち足りた日々を送っていますよ。」
「それはしたいこととは違うんですか?」
「難しいですね。お客様に気持ちよく過ごしてもらえれば、いまの私は私の仕事を今日もちゃんと全うできたと思い、満ち足りた思いになれるのですよ。」
「私には夢があります。」
「そうですか。それはとても素敵なことです。・・・おっと、話し込んでしまいましたね。」
車掌さんはふいに何かに気付いて、懐から小さな鈴を取り出すと、持ち手を左右に振る。チリンと、小気味よい音がした。
「次の駅に停車します。お乗り換えは、向かいのホームからです。」
すると、弐羽がぼくの袖を引く。
「降りよう?」
「え?」
このコンビニ、降りて大丈夫なのだろうか。
「乗換えだって。」
彼女はさも当然のように、ぼくにそう言う。
「乗り換えるの?」
ぼくが念のため確認をとると、彼女は言った。
「だって、この線路の続く先は、きっと私の行きたいところではないから。」
「そうですか。」
車掌さんは、穏やかに頷いた。
『銀河マート』が停店して、扉が開くと、外の空気が流れ込んでくる。その空気にぼくは勢いよく咽(むせ)る。
「ちょっと、大丈夫?」
弐羽が背中をさすってくれて、少し落ち着くが、咳の元が喉の奥に居座っているような居心地の悪さだった。
「それは、アレルギーですよ。」
車掌さんがそう言う。それから何かを取り出して渡してくれる。
「これ、薬です。朝昼晩、一日三回、服用してくださいね。」
「副作用・・・とかありますか?」
ぼくはなんとなく察しがついていた。これはきっと夢と現実を分離する薬なのだ。社会を動かす歯車になるための薬なのだ。それは社会にとって必要な仕事で、人に必要とされる仕事に就くことは、とても良いことなのだ。車掌さんは、分かっている、というようにそして、安心させるように微笑んだ。
「何かが見えなくなるかもしれません。目に見えない何かが。あるいは微かに見えていた何かが。」
「・・・そうですか。」
外に目をやると、さっきまでより少し近くに明るい星が見える。
「明るい星は、夢の欠片を吸って、本当になっていくのです。」
車掌さんは語り部のように、そう言う。
「本当になっていく・・・。そのとき周りの星は?」
ぼくは咽返(むせかえ)るのを我慢しながら、そう尋ねる。
「すべてが星になれるはずがありませんから・・・。互いの引力で惹かれあいながら、ひとつの星が、大きくなっていくんです。」
「大きくならなければいけないのですか?」
ぼくは分かっていることを、それでも尋ねずにはいられなかった。
「大きくならないと、星にはなれないでしょう。」
*
気が付くとぼくは、コンビニ『銀河マート』の駐車場にいた。アスファルトを踏みしめる。秋めいてきた空気が澄んでいて、雲は低く、夜空は遠く続いていた。
「あれ、どうしたの?」
横断歩道を渡って、弐羽がやってくる。顔に惣菜パンと書いてある。
「夢・・・だったかな。」
怪訝そうな顔をする彼女に、ぼくは生まれたばかりのぼくの星を、見せることにする。
「ぼくも来年、東京に行くよ。」
「そっか。」
彼女の表情は複雑で、暗いことも相まって、どんな感情なのか伺い知れない。
「うん。でも、就職はちゃんとする。できるだけ、頑張るから。」
「そっか。」
「うん。」
きっと彼女の身体は夢でできている。その手もその足も・・・夢のために作ってきたのだ。だから、彼女が夢から覚めたなら、夢から醒めなければならなくなったなら・・・そのとき、ぼくにできることをしようと思った。
それはあのとき感じた、スーツの中のまだ何もない宇宙に、新しく燃え始めたぼくの星であるように思えた。
(執筆:2010年5月3日 加筆:2026年1月5日)
あとがき
ああ、こう書きたかったんだと、気付いた16年の旅路。まだ、きっと続いていくのでしょう。